『間抜けの構造』 by ビートたけし
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読んだ/観た日:2020/05/18 - 2020/05/24
★思想・哲学/自己啓発/IT総合:3.2
深さ/人生への影響度:3.2
新知識/新しい気付き:3.2
分かりやすさ:3.5
他の人におすすめ:3.2
あらすじ/概要
見渡せば世の中、間抜けな奴ばかり。どいつもこいつも、間が悪いったらありゃしない。“間”というものは厄介で、その正体は見えにくいし、コントロールするのも難しい。けれど、それを制した奴だけが、それぞれの世界で成功することができるんだよ――。芸人、映画監督として、これまでずっと“間”について考え格闘してきたビートたけしが、貴重な芸談に破天荒な人生論を交えて語る、この世で一番大事な“間”の話。
目次
間抜けなやつら
”間”を制すもの、笑いを制す ー 漫才の”間”
お辞儀がきれいな人に落語の下手な人はいない ー 落語の”間”
司会者の”間”を盗め ー テレビの”間”
いかに相手の”間”を外すか ー スポーツ・芸術の”間”
映画は”間”の芸術である ー 映画の”間”
”間”の功罪 ー 日本人の”間”
死んで永遠の”間”を生きる ー 人生の”間”
鑑賞中メモ
普通に面白い。テンポが良い。間の本だけある。
討論
肯定して間を作る
言いたいことは2つ
野球は間のスポーツ、緩急
クリケットは2,3日試合。途中ティータイム
あんまり間をうめちゃうと意味を限定しちゃう
間の翻訳がない
間はなんとなく連続体、intervalは個体的
再生産の繰り返し
新しいものを作らなければならないのか?再生産の問題点は?
全ては結果論
「グレーゾーンのままだと不安だから、どうしてもオセロみたいに白黒つけたくなる」
「人間というのは、なにかと理由のほしい生き物だから」
考えるということは、理由を探すということだ
感想/考察
個人的には野球の話と間の翻訳の話がおもしろかった
野球は自分がずっとピッチャーやってたこともあって、すごくよく分かる。投げるときに打たれそうな間というのがあって、そういうときにその間に飲まれると案の定打たれる。間という音は魔に通じるけれど、まさに投手にとっては倒すべき魔である。場数を踏んでるとか才能のあるピッチャーは、その間を外す術を心得ていて、自分の間に戻すことができる。それは渾身のストレートだったり、伝家の宝刀だったり、牽制だったり、ロジンをさわることだったり、場面によって方法は異なるけど。
間の翻訳がないといのは確かにそうかもと思った。基本的に翻訳というのは完全な一対一にはなりえない(ていうかそもそも日本人の間でだって、その単語の正確な定義は不可能)のはそうなのだが、なんとなく他の単語とは違って、根本的な部分で異なっているような感じを受ける。
まず第一に、間という単語の使用範囲がでかいので、英語1単語で表すのは難しい。そして、間という概念そのものが欧米には存在しないように感じる。例えばspaceもintervalもなんというか絵にかいて説明できる。つまり、なにか明確に区分されているような印象。だが、間は、なんというか連続的な存在で、絵にかきづらい。単純に何かと何かの間という以上に、その何かと何か自体をも内包しているような連続的な印象を受ける。
そもそも日本語というか日本人の感覚は、自分というものを明確に自然から切り離さない。屏風絵にしてもそうだが、連続体の一部として自己を捉えているというか、自己に限らず、全てのものは連続体であることをなんとなく意識している。
対して西欧は、おそらく一神教の影響なのか、そもそも一神教を生んだ何かしらの性質があるのかはわからないが、神の客体としての自己を明確に環境から切り離している。故に人は切り離し可能な個体であり、トランスポーテーションも可能という考えになる。